前回の記事では、数学という教科でどのようなことを学ぶのかということについて解説していきました。数学は主に、幾何学・代数学・解析学の三つの分野で構成されます。そのほかに、確率論や統計学などが数学の分野として位置付けられることもあります。このような数学の全体像を前回の記事では紹介しました。今回の記事では、古代から現代に至るまでの数学の歴史の概略をご紹介していければと思います。数学の誕生=文明の誕生?数学の誕生と文明の誕生は、ほぼ同時期のものであると考えることができます。というのも、文明の発展は数学的知識や実践と大きな関係性があるからです。文明は、大河周辺で誕生しました。小さな農村集落が次第に大きくなり、都市を形成するようになりました。古代都市にも、水路や倉庫、神殿や劇場などさまざまなインフラが存在していました。階級も生まれ、支配者層と被支配者の区別も生まれるようになりました。その中で、支配者層は統治のために「文字」や「数学」を駆使するようになります。数学は、税金の計算や天体の動きの計算≒暦の作成、洪水の予測や建造物の測量などさまざまな用途で活用されていました。数字の表現や四則演算の方法、三角比の考え方なども古代文明では知られていました。このような数学的知識や技術の発展によって、文明もまた大きく発展していくことになりました。古代文明社会から現代文明社会まで一貫して、数学の知識は社会の基礎を構築しているのです。実用から理論へ——ユークリッド幾何学これまで見てきたように、数学は実用的なニーズによって発展しました。「正確な測量をする」「正確な計算をする」という目標のために、数学的知識が発展してきたのです。あくまでも、数学は実用的な課題を解決するための道具という側面が強かったのです。しかし、古代ギリシアにおいて実用的な性格が強かった数学の質が変化しました。「三平方の定理」を発見したピタゴラスは、数学を信仰する教団を設立し、「万物の根源は数である」という主張をしました。このように、数学はある種の宗教的な意味合いを帯びるようになったのです。とはいえ、これは驚くべきことでもありません。現代社会は、科学的な知見が十分に広まっており、自然現象に対する理解も深まっていますが、古代社会ではそうではありませんでした。そのため、洪水の予測や天体の動きを予測できる数学者たちは、ある種の呪術的な力をもっているとされたのです。日本の陰陽師も、数学的知識をもとに、暦の作成などを行う職業者でした。陰陽師というと、式神を駆使した呪術師の側面が一般的な認知として広まっていますよね。このように、数学者は呪術師でもあったのです。こうして、学問としての数学が古代ギリシアで誕生することになりました。そして、学問としての数学を確立したとも言える人物がユークリッド(エウクレイデス)です。ユークリッドは、『原論』という書物を記しました。『原論』は、論理的に無矛盾な形で、図形の性質や図形に関する定理を証明した書物です。自明な公準や定義を駆使して、定理を証明していくスタイルは、現在でもなお数学の基本的なスタイルです。幾何学は、図形の学問であると思われていますし、実際そうなのですが、それ以上に論理によって無矛盾な体系を構築する方法なのです。こうして、実用を離れて、数学的に無矛盾な体系を構築するという理論としての数学プロジェクトが進んでいくことになります。そして、実用を離れた、純粋に理論的な数学的真理を目指すという営みが、西洋数学の大きな特徴であると言えるのです。ちなみに、『原論』は19世紀まで数学の教科書として活用されていたようです。※もちろん、西洋において実用的な数学が存在しなかったわけでもないですし、理論的な数学が実用数学に影響を与えることもあります。強調したい点は、数学的真理を目指すという集団的な営みが西洋の数学コミュニティに見られる特徴だということです。記数法の革命理論としての数学というプロジェクトの大きな妨げになっていたのが、記数法であるといえます。記数法とは、数字の表現方法です。現在では、123のように表現しますが古代社会ではⅠⅡⅢのように表現していました。また、+や×などの四則演算の記号も存在していませんでした。そのため、3×4という表現ですら存在しなかったのです。ⅢとⅣをかけると、Ⅻになるのですが、この計算をするだけでも多少手間がかかっていました。現代のように高度な電卓は存在していなかったので、数と数の計算も複雑になればなるほど多大な時間と労力を要求していたのです。また、0という表記法も存在していなかったので、桁が大きくなればなるほど、数字を表現するのも大変だったのです。数学というプロジェクトの発展の障害になっていたのが、実は数の表記方法だったのです。数字を簡潔に表現し、計算を簡単にする効率的な記数法は、アラビア社会とインド社会で生まれました。私たちが使っている「123456789」という数字の表記は、アラビア数字というものです。そして、「0」という表記はインドで発明されました。このアラビア数字と0を組み合わせることによって、数字の表記はとてもシンプルになったのです。※+やーなどの表記法は15世紀、×や÷という表記法は17世紀に発明されました。アラビア数字・0・四則演算の組み合わせは、実は比較的最近のものなのですね。文字式の威力記数法の革命はまだまだ続きます。それが、文字式の発明です。文字式とは、未知数をx,yやa,bなどで表現する式のことです。代表的な例が、方程式です。2x+4=0が与えられている時、私たちはx=-2とすぐに求めることができますよね。それは未知数を文字で表すことができるからです。しかし、文字式が存在しなければ計算はより複雑かつ面倒なものになります。小学校の時に習う鶴亀算や旅人算などを思い浮かべてみてください。文字式という概念を知っていれば、瞬時に計算して、求めたい値を導出できますよね。しかし、そうでなければ、図に表してみたり、表を書いてみたりすることによって、求めたい値を導出することになります。未知の数を、任意の文字で表現するという作業はとてもシンプルなものです。しかし、そのアイディアが存在しなければ、計算の手順はより長くなってしまい、その分ミスも増えてしまうことになります。一方、文字式で表現してしまえば、計算工程は短縮でき、その分だけミスも減ることになります。記数法の発明と同じく、文字式の発明も、計算をよりシンプルなものへと変化させ、その分だけ数学の発達を加速したのです。ちなみに、現在のような形の文字式を発明したとされるのが、主に哲学者として知られるルネ・デカルトです。数式と図形の出会い——座標とグラフの発明このデカルトですが、文字式以上の発明も行いました。それが、直交座標系の発明です。直交座標系とは、直交するx軸とy軸で形成される平面座標系のことです。いわゆる、みなさんに最も馴染みのある座標空間をイメージしてください。デカルトは、その主著『方法序説』において、この座標系を提示しました。「我思う、故に我あり」という誰もが知っているだろう言葉を残し、近代哲学の創設者ともされるデカルトは、実は数学という分野でも大きな成果を残しているのです。さて、この座標系の発明はどのような点がすごいのでしょうか。それは、数式と図形を融合したところにあります。つまり、代数学と幾何学を結びつけたのです。といわれても、ピンとこないかもですね。具体的な例で考えていきましょう。直交するx軸とy軸で構成される座標空間上に、A(6,8)、B(2,2)という点を打ちます。その二つの点を結ぶ直線を次に表現します。直線は図形ですよね。しかし、座標軸上に表すことによってこの図形はグラフとなります。グラフとは、二つ以上の数量を図形に示したものだからです。では、このグラフをさらに数式で表現してみたいと思います。点Aと点Bを結部直線であるので、y=1.5X-1と表現することができます。ただの直線=図形だったものが、座標空間上で表現されることによって、数式に変換することができるのです。(Geogebraをもとに筆者が作成)このように、座標とグラフの発明によって、図形を数式に変換し、逆に数式を図形に変換することができるようになったのです。それまでは、図形は図形として、数式は数式として考えられてきましたが、座標系の発明によって、互いに往復することができるようになったのです。図形を計算することができるようになれば、これまた計算がとても楽になりますよね。逆に、数式を図形で表すことができればその数式の特徴を瞬時に視覚化することもできますよね。現代社会で必須のスキルとも言われている統計学も、この図形と数字を結びつけるという発明品がなければ成立し得ません。座標系の発明は、このような革命的な出来事だったのです。まとめ今回の記事では、古代文明から近代数学の誕生までを扱ってきました。文明の発展と共に、実用的なニーズを満たすために数学は発展しました。さらにその後、古代ギリシア世界において近代数学の原型ともいうことができるユークリッド幾何学が誕生し、無矛盾の体系を構築するという実用の関心から離れた数学のプロジェクトが始動しました。その数学的プロジェクトの発展は、簡潔に数量を表現し、計算を効率化することに多くの労力が払われてきました。アラビア数字・0・文字式などの発明が、計算をより簡潔にし、数学を大きく飛躍させていきました。さらに、数式と図形を結びつける座標やグラフの発明によって、数学的な表現はより広がっていったのです。次回の記事では、座標系から発展した解析学から、確率論や統計学の話、そして現代数学についての解説をしていければと思っています。参考カッツ(2005)『数学の歴史』共立出版吉田 洋一(2013)『数学序説』ちくま学芸文庫