取り上げる書籍の前提・概要 『ケアとは何かー実践の現場から学ぶ、看護・福祉の本質』(村上靖彦)は、医療の現場で働く看護師やヘルパー(ケアラー)へのインタビューを元に、ケアの本質とは何かというテーゼへと迫っていく書籍となっています。学校・教育現場もまた、捉え方や場面に応じてはケアの現場となりえると考え、内容をまとめながら所感や応用について提案します。非常にナラティブな一冊であるため、引用しながら議論を進めます。本記事は、前中後編からなるシリーズの前編となります。<帯より>やがて訪れる死や衰弱は、誰にも避けられない。自分や親しい人が苦境に立たされた時、私たちは「独りでは生きていけない」と痛感する。ケアとは、そうした人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みである。本書は、ケアを受ける人や医療従事者、ソーシャルワーカーへの聞き取りを通じて、より良いケアのあり方を模索。介護や地域活動に通底する「当事者主体の支援」を探り、コロナ後の課題についても論じる。このように、本書は医療関係者の介入が行われたケースについて論じるものであり、ヤングケアラー・終末医療・ピアグループなどを主に扱っています。そのため、一概に学校や教育現場へと重ね合わせるものではありませんが、エッセンシャルには共通するものがあると感じました。学校が目指す地平学校・教育現場は、中高生たちにとって非常に大きな割合を占める生活空間です。一方で、それが彼らの「居場所」たりえているかどうかについては、残念ながら未だ断言できない状況があります。教室に友人が多く、部活動にも熱心に取り組んでいるような学生像においては、学校は「居場所」として認識されるでしょう。一方で、いじめなどの問題が取り沙汰されるように、ケースによっては学校は単に不条理を強いる場として作用することすらもあります。もしくは、家庭環境が混乱しているケースでは、学校はある種の逃げ場として作用することもあります。このように、中高生にとって必然的に属している「学校」というものは、彼らにとってなんらかの役割を帯びることになります。学生生活の主たる現場となる学校が彼らの人生にとって実り多き空間となるよう、教育関係者は、学校が彼らの「居場所」となるようなサポートを行うことが望ましいと考えられます。では、「居場所」とはなんでしょうか。本書では、「落ち着く場所」として3つの段階を提示しています。①体の感覚を休めることができる場所②人間関係における落ち着きを得られる場所③そこを基盤として、行為が可能になる土台境界性パーソナリティ障害や愛着障害の治療・支援の文脈では、「安全基地」「安心基地」「探索基地」という3つの領域が言及されます。この3つの「落ち着く場所」はそれらに対応しているものと考えることができますが、相違点もあります。「安全・安心・探索基地」においては、安全基地が確立していない状況(不安定な家庭環境や親子関係)が多いために、まずは安心基地のビルドを目指すケースが多く、つまり「安全→安心→探索」という順番に拘泥する必要はないとされています。一方、本書で取り扱われている3段階は①②③の順に確立されていくものとして取り扱われています。①体の感覚を休めることができる場所 は一般的には家庭が担う領域です。②人間関係における落ち着きを得られる場所 ③そこを基盤として、行為が可能になる土台 は、理想的には家庭と学校の両方が担うものとなります。前述したように、家庭環境が混乱を産んでいるケース等においては、①体の感覚を休めることができる場所 を学校に求めることもあります。しかし、基本的に学校として目指されるべきは③そこを基盤として、行為が可能になる土台 であることは議論を待たないでしょう。【前編】自律と小さな願い③そこを基盤として、行為が可能になる土台 に必要な要素として、中高生の自律性を育むことが挙げられるでしょう。いかにお膳立てしようとも、結局は本人のやる気がない…などという状況は十分に想定できるものですが、一度、自律というものの定義について立ち止まって考えてみる必要があります。本書では自律に関して次のような記述があります。"たとえば、あなたは入院しており、四肢が麻痺した状態だとします。私は看護師で、あなたの部屋に入ります。すると、「テレビを見たいからつけてほしい」と言われ、リモコンのスイッチを押します。そして「どの番組を見ますか?」と尋ねます。あなたは「NHKが見たい」と言い、わたしは選局します。自分の手でリモコンを扱えないような身体の状態では、「自律していない」とみなされがちです。しかし、あなたは自律しています。自分はテレビを見たいと思い、自分で番組を選択しているからです。そのとき看護師はどういう存在でしょうか。あなたは手が使えないのです。看護師はあなたの手になります。(…)ケアする人の役割は、「あなたの代わりになにかを決めること」ではありません。あなたの自律を介助することです。”状況設定が極端に感じられるかもしれませんが、「自律とは何か?」と考えるにあたって、非常にわかりやすい例だと思います。どこまでが自律か。どこまでが介入でどこからが介助ーサポートなのか。どこからが過干渉か。これらはスペクトラムに思われますが、この例に従えば明確な基準が一つ浮かび上がります。「本人の希望を叶えるかどうか」です。この例は、以下の記述へと繋がっていきます。“願いを聞き取り、叶えるケアが、ここでは自律と結び付けられている。自律とは、一人で生活できることではなく、自分自身の願いを具体化できることなのだ。すなわち、生活の中での願いを実現していくことは、自分自身になることなのである。ケアは、この部分に大きく関わる営みだ。"本書では、このように「小さな願いを叶えること」が「自律」とイコールで結ばれています。「生活の中での願いを実現していくことは自分自身になること」なのです。中高生は一般に思春期を迎え、アイデンティティを育むにあたり非常に重要でセンシティブな季節を過ごしています。「彼らにとって彼ら自身が何者であるのか」という深い問いに向き合うにあたり、私たちができることは、小さな願いを叶える、つまり彼らが自らのニーズに気づき、叶える作業をサポートすることであり、それがひいては彼らの自律に直結することになるのです。本人のやる気を引き出すことこそが教育の本質の一部を成すということ自体には、異論は少ないでしょう。この点でも本書の主張は教育現場への応用可能性を感じさせます。一方で、「さとり世代」という呼称が象徴するように、現代の若年層世代は将来への希望・期待が弱いという傾向が見られます。つまり、教育者に必要なのは、そもそも中高生に願いを抱かせるような環境づくりであると換言できるのです。やる気以前に叶えたい夢が特にないというようなケースに際し、教職員ができることはなんなのかを問い直す必要が出てきます。本書では、願いを抱かせることについて次のように述べられます。"希望がかすかにあっても、成功体験が少ないと子供は「あきらめ」てしまう。「あきらめ」とは、願いを失うことだ。選択肢ができるだけ増えるように環境を整え、「あきらめ」ないように願いを口にできる環境を確保する。子どもが何を願っているかを訊いてみることは、どんな社会環境なら希望を持てるのか、その前提条件を整えることにつながる。「仕方ない」とあきらめることは、状況に打ち勝つレジリエンスなどではなく、不合理ゆえに「あきらめて」しまっている状態だ。この袋小路を打ち破って、本人が自分の中の願いに気づくためには、生活基盤を支えると共に、「あなたはどう思うの?」と問い続けないといけない。ケアは、自分が何を望んでいるのかを、当事者自身が気づき、言葉にできるようになるところから次の段階へと進む。「あきらめ」に対抗しようと対話の環境を整えるケアラーは、願う力を生み出す源泉でもあるのだ。”限られた選択肢を与えるのではなく、できるだけ選択肢が増えるような環境を整えること。そしてその上で本人がどう思うのかを尋ね続け、希望や進路選択が決して押し付けにならないこと。教育者として念頭に置かれるべき、重要な要素です。進路指導や進学、学部選択などの文脈でもよく起こる問題として、なんとなく◯◯系の学部に入ってみたものの、想像していたのとは異なっていた、というケースがあります。その場合、選択肢の提示の時点で、必要な情報が十分に理解されていなかったということになります。また、必要な情報自体は手渡せていたとしても、「本当に」本人がその進路を望んでいるのかには疑問を持つという態度も必要になってきます。「なんとなく」で発される進路希望に待ったをかけられるかどうか、もっとやりたいこと、もっと向いていることは何か、それができる学部は、大学は、研究室はどこなのか。そういった領域にまで踏み込んでいく、流れ作業でない進路指導を展開する必要があるでしょう。また、上記引用は次のように続いていきます。“ただし、大人がいくら子どものために良かれと思って準備をしても、それはお仕着せになるリスクがあるということを強調しておく。願いを生み出すケアは、ときとして独りよがりなパターナリズムにつながりやすい。それゆえに、声かけをして本人の声に耳を傾けることの重要性が際立ってくるのだ。"やはり本人の意思が重視され、押し付けにならないような気配りが重要とされています。そのような態度のキーワードとなるのは「対話」でしょう。続く中編では、教育現場における対話について、より深く検討していきます。